長崎市の青果市場のルーツは大正時代

 長崎市の青果市場のルーツは大正時代にさかのぼりますが、戦後においては青果物の統制解除に伴い、青果物の荷受卸売会社は昭和23年ごろから増加し数社におよび、銅座町の十八銀行周辺地域に散在して営業を行っておりました。都市の発展と共に地域の区画整理の進展に伴い移転の必要性が生じ、昭和34年に長崎市は青果市場を尾上町の旧魚市跡に移転開場し当時5社の青果荷受卸売会社が入場し、以後昭和50年6月まで同所で営業が行われました。その間昭和46年4月に新たに卸売市場法が制定されるに伴い、中央卸売り市場整備計画も進みまして、長崎市は昭和47年2月に中央卸売市場開設必要都市の指定を受け開設対策が進められました。中央卸売市場入場の前提条件として乱立した青果会社の整備統合、2社入場の基本線に従って会社合併が進められました。当社の前進は長崎天満青果株式会社、長崎丸協青果株式会社、丸富青果会社の3社であり、昭和49年5月の合併成立し株式会社長果が設立されました。株式会社長果としての営業は尾上町の長崎市地方卸売市場で昭和50年1月初市より開始され、昭和50年6月まで同市場で行われました。昭和50年7月1日、現在地の長崎市中央卸市場の開場に伴い農林大臣の許可に依り同市場の移転入場し、中央卸売市場青果部卸売業者として営業を開始し現在に至っています。